てきとうなさいと べぇたばん

世の中の感動の90%は必要なかったのではないかと思っている

タイトルは言い過ぎだけど

世の中にある感動には、ちゃんと考えないとダメだよなぁと思っている。何をどういう風なのかというと、以下のように。

挫折のパターン

感動するシナリオのひとつに、以下のような「挫折したあとに立ち直る」パターンがある。

  1. 挫折などの「悲劇」が発生。何かしらの「犠牲」が発生。
  2. 「悲劇」から立ち直ろうと努力する
  3. 「犠牲」を取り戻す

例えばこれが、「スポーツ選手が怪我や病気で挫折したが、鮮やかに復活する姿」なら、素晴らしくて感動ものだ。

挫折の種類

しかし、3を感動とするのならば、1がなかったら感動できない。1には何かしらの犠牲があるわけだから、その犠牲の種類によっては感動がないほうがよっぽどマシという事もありえる。

その感動は、眼に見えない所でどれほどの犠牲が払われたものなのだろうか。犠牲を代償に感動を手に入れているという側面もあるのかもしれない。

感動しないほうが効率がいいのに…?

しかし、不思議な話だなと思う。犠牲がなければ人は感動することはかなり少なくなる。例えば、この世の中が機械のような効率だけを求めて行動するものだけになったら、犠牲はもっと少なくなるだろう。しかし、感動のない味気ない世の中になるとは思う。

機械どころか人間でも理解できないこの気持ち

人間は時に犠牲を払って感動を手に入れる。多分、機械には理解できないものなのではないかなぁと思う。

これからの時代、人間の仕事がどんどん機械に取って代わられるのであれば、そうした「人間らしさ」というものが生きていくヒントになるのではないか、と「感動」から考えてしまったのだ。

「感動の名作」

「感動の名作」と銘打っている小説や映画は、そこで払われている犠牲を考えるとまた違った見方ができるかもしれないなぁ…